COLUMN
荒川尚也が綴るColumn
職人のつくるガラス
今はほとんどが機械で作られるガラスにも、かつて、自らの技と肉体とで“機械”と競い合った“職人”の時代があった。そこでは“美術工芸品”でなく、今では機械生産やプラスチック製に代わられた“実用ガラス”が作られていた。食器、容器瓶、ランプのホヤ、照明器具、尿瓶などの医療用ガラス、温度計や金魚鉢など、あらゆるガラスが、職人の“息”で作られた。
僕はそう云う時代の、最後の現場でガラスを学んだ。そこでは、“職人”が精密、正確に、粘り強く、機械の様に製品を作り出していた。そのガラスに僕は、“機能美”を超えた美しさを見つけた。
無機質の素材であるガラスにも人の息遣い、自然と同質の揺らぎ、時間の流れがやどる。
暮らしの中のガラス
砂を熔かしてガラスを作る。
水にも味があるように、無色透明のガラスにも個性がある。
ひとつひとつ人が吹いて作るガラスには時が刻み込まれている。同じグラスを作っていても 同じ物は出来ない。この世界では同じ時は繰り返さないから。
特別変わった事もなく、同じ事の繰り返しの様な毎日でも同じ一日はない。その中にふと気付く美しく味わい深い時がある。
日々の暮らしで使われるガラスには、その時々の光が映り込んでいる。
ガラスに映る光の変化が、時の流れの美しさを知らせてくれる。
渓流のグラス
僕の暮らす京丹波町の和知は水に恵まれた山里だ。鮎やアマゴが釣れる清流が流れ、カヌーで川下りも楽しめる。そして冬には雪が積もり川霧がたちモノトーンの水墨画の世界になる。此処での暮らしで僕は、水の見せる様々な姿と表情を知った。
渓流の水は、滝やせせらぎ、よどみと云った地形により表情を変える。渓流を流れる水とコンクリートのプールに溜まった水の表情はちがう。水は更に氷や氷柱、雲や霧と姿を変える。
水と同じ様にガラスもその動きが表情をつくる。吹きガラスで扱う千数百度で熔けたガラスは、水と同じ液体として振舞う。そしてその液体としての性質を利用してガラスは成型される。その成型時のガラスの動きと道具の痕跡がガラスの表情をつくる。つまり人が単純な道具と身体だけで作る吹きガラスでは、人の動きがガラスの姿と表情を作ることになる。従って、吹きガラスのデザインは紙の上で鉛筆を使って出来るものでは無く、また同じ形でも吹く人により、また同じ人でも数を作り込んで行く事でその表情は変わる。
僕は最近、渓流グラスというコップを作っている。滑らかな回転運動が作るラインに気持を乗せていくのが吹きガラスの基本であり醍醐味でもあるが、たまにはイタズラもしたくなる。このコップには、道具を使ってガラスを挟みテクスチャーを着けることで、吹きガラスの基本的動きである回転運動のシンメトリーを壊す意図がある。真円に近く仕上がったコップのくちを敢えて道具でつぶして行く。そのとき僕が持ち込むある意味デタラメなリズムがコップにいろいろな表情をつくる。コップを作るには無駄な動きではあるが、作っていると、まるで渓流で水遊びをしているような気分になる。心が躍る仕事だけど、余り長く続けるととても消耗してしまう。凡人は滝壷の側には長く暮らせないなと思ったりする。でも毎日プールの側では退屈するなとも思いながら作っている。
荒川尚也 Wed.10.14.2009